久しぶりに長くつぶやく。Teenagedream。恋の話。

忙しさMaxが、峠をこえて、

なーんだ、わたし、
「どうしよう、どうしよう」って、

自分のなかで「できないかも」って自信がなくて、
ぐらぐらして不安になっていただけで、

ただ、自分の不安が、ストレスを発生させていたのね、という気づき。

「できないではなく、ただ、やる」

「Just Do IT なのだ」

と、見切ってから、
ちょっと楽になり、

適度に手抜きや妥協もして(まだまだ過密ではあるが)、

すこし膠着が緩和された。

体はすこし、不具合が出ているから、ケアしなきゃ~。



「ただ、やるのだ」

と思うと、

とりあえず、できるように計算し、設計し、動いていくから、

人間ってすごいよね。


ゆらゆら揺れるのって、
人のせいではなく、

おそらく、自分の自信の無さ、劣等感、自己否定、自己卑下、苦手意識から発生しているものであり、

自分の個性を否定してみたりして、

理解されないかもって、疑心暗鬼になって、なにか気に入られるように、合わせようとしたり。

その相手みたいに、したら、気に入られるかなって、顔色をうかがって。

ああ、でも、
結局、自分の最善は、自分の個性を発揮したところにあるので、

変わろうとして、別の物になろうとしても、かえって、中途半端な変な状態、力が発揮できない。


で、結局、
わたしが自分らしくやる形が、
ユニークで、たぶん、他の人にはできない方法かもしれない、って今日は思った。

人のまねしたり、何かの型にはまっても、

それは、私が求められているものではなくて、

私だからできることを、ただ、子どもたちのためにやっていくことが、最善。



子どもたちに教えられることは、たくさん。

夢見る心は、どこまでも、制限はなく、

一歩間違えれば、空想は妄想だけど、

まだ枠にはまっていない、心は自由だと信じている純粋さに、

どこか共鳴する、わたしのこころ。



人のこころは、自由なのだそうだ。



そして、話していく中で、

わたしは、わたしだな~、わたしのままでいいのだって、感じ、

確かめ、

愛を受け取っている、今日この頃。

わたしには、わたしにできることのなかで、愛がある。


仕事でも、心の交流、人間関係でも、

わたしには、ただ、そこにいるだけでも、十分な働きがある。

きっとそれは、みんな、ただそこにいるだけで、十分だというあれと同じ。



達観しすぎてきて

まじめすぎる、自分が、ただ別次元の喜びで満足できてしまう今日この頃。

迷うってことは、結局、どちらも同じ、
どちらでもいいということなのだと、
わたしの底のほうから聞こえてきたので、

流れに身を任せて、

心の底から、いつしか本気の声が響いたなら、

腹は決まって、動き出すのだろうな。


この頃、恋の好みが、変わってきた気がする。

正直、なにが、好きなのか、自分の好みがよくわからない。

いいな~って思っても、
相手からは好かれないなど、
同じ失敗を繰り返したくない、っていうパターンに縛られている自分も感じる。

自分を大切にする感覚を思い出すと、
わたしを大切にしてくれているなあという実感を与えてくれる人が、
相手としては一番いいのかな、と思ったりする。

でも、それは自分が、相手を好きだ、惹かれるという気持ちと、はたして重なるのかどうか。




たぶん、本当は、好きな気持ちは一分の狂いもなく、
すべて、一つ一つがもう決まっているはず。

自分は、自分の気持ちを、知ってるんだよね。本当はね。

この人に感じる思いと、あの人に感じる思い、その人に感じる思いと、
何一つ同じ事は無い。
だって、相手がちがうんだから。

共通するのは、ただ、自分ってこと。

自分の頭で考えるから、別のものをみたり、別の現実を引き寄せてガッカリ失望するだけで。

それでいて、好きになってもらおうとする努力ってのは、
恋は人を磨きはするけれども、
ある程度までであって、
もうちがうだろうって、いう、学びからきた気づきもあって。

・・・いま、一番好きなのは、自分自身かもしれない。

いろんな人との関係性の編み目の中で、
他者を通して自分をみつめたとき、
うまく循環しているな~という感動を味わったときの、「自分」が。


「私を好きになって!!!」
「私の方をみて!!」

は、もう、そろそろ、いい加減飽きてきて、

無理なく好きなことをしてて、心地よくて、
その中で共にいられる人たちと、
共に笑いたい、幸せになりたいとおもう、今日この頃。

五月になりまして。

ケアレスミスが、頻発。

おかしいわ~。

「こわれた人間みたい」って、我ながら苦笑い。

千と千尋の神かくしの、
おくされがみさま、みたいになっていたら、いやだな~。

まあ、おくされさまよりは、ずっと私は小物で、
ただ、
凡ミスが多発しているってだけだろうが。

いずれも、
大事には至らないミスなので、よかったわ~。


とにかく、もの忘れが多い。

たとえば、ネットで予約したつもりが、ぽちっと最後のボタンを押してなかったりする。

あと、予定が立て込みすぎてて、思い出せなかったり。
(ま、手帳でまめに管理しろよってことだろうが)。

こんな、だめ?なじぶんを、
とほほ~と笑いながら

「まあ、詰めすぎなんだよね」って、単純に思ったりするんだよね。

どうして、これが動いているのか、
諸事を回せているのが、ふしぎなくらいに、ある意味で。

時間に追われず、
予定も未定で、
お金も関係なくって、
誰にも支配されずに、あくせく働かずに、
のんびりほっこり、田舎暮らし…
とか、
そういうのが、スピな人の暮らし?や、
スピ好きの人の暮らし??とか、以前は、思っていたのかもしれない。

けれども、

最近思うに、
エネルギーの大きな人は、
そんなことにすら固定観念であり、
縛られない。

枠外なのだろうな、と。

お役目が増えてくると、
求められるから、あちゃこちゃ動くし、
どんどん、新しいものも入ってくるし、
自分自身も、向上する気持ちが強いし、

ただ、取捨選択しなければ、いけないっていう必要性。

忙しいこと、
立ち働いていることが、たいして、苦ではない。

スケジュールを過密にして、
自分のなかの空虚を埋めている感じもなく、

ただ、そうだから、そうなっているって感じで。

充実感、やりがいもありつつ。

でも、やっぱり、心身のメンテやケアは意識的に必要だね~。

無駄や無理を、
手放し、省略していく、ことの、必要性も実感。

自分の弱さ、かわいらしさ、もそうして、受容。

エンパス。人のはなし。無駄なこと。

数週間前だろうか、

ちなさんのブログで、
モール症候群という単語を読み、
そのまま検索して、
「エンパス」についての記事にたどり着き、本を試しに買ってみた。

「エンパス」の著者の、来日ワークショップに、
その頃、全然、知識がなかった5,6年前に、
偶然、人のつきあいで参加していたことも、今更になって知り、驚く。

エンパスエンパスって、
なんだか、それで言い訳みたいって思ってた。

なんとなく知っているけど、
なんとなく近づかないで、深く知ろうとしないで、通り過ぎていた。

今のタイミングで、
客観的に内容にふれてみたら、
あらまあ、わたしは、これでしょうね、って感じの内容ばかりだった。

具体的な対応策、暮らし方、方法論のヒントも、載っており、
役立つかも?!。

人は好きだし、人の集まりも好きなのだが、

ちょっと「人あたり」みたいに、
食中毒症状をおこし、

けっこう、疲れたり、ひきずる、重くなることも多い。


そのもやもやを分析するのが、
大体わたしの、翌日~数日間の内省、メンテナンスタイム。


その、取り扱い方も、
ほんと、そのときそのときで、その質もかなり変わっていくよね。

わたしも、成長してきたって事かな。

わたしは、なんだかんだで、
自分がやっぱり、スパンと、単純な理想主義なので、
そして感覚もそれで生きているので、

「どろどろ」が、あまり理解できないのかもしれない、本当の意味で。

人のことは、どうでもいいから、
結局、いまのじぶんは、どうなの?!って思うのだ。

良い・悪い、
言ってたら、きりないよ。

本当に、大切なこと、
最善を尽くすために意識を集中することが、
できなくなるよ。

無駄なエネルギーを、どうでもいい人のために、消耗するのは。

いくら、「被害者」だとしても、
それをぐちぐち言い続けていたら、その人たちと同じエネルギーを発しているよね、ほぼ。

そういう次元で、同じ土俵の相撲をとるのではなく、

ただ、自分が自分らしく輝き、超ハッピーになることだけが、

本当の意味での「勝利」だと思うのです。

勝ち負け幻想、勝ち負け原則で生きている人に、説明するとしたら、
これがわかりやすい説明。



って、わたしは、自分の時間を、自分軸のほうへ向けていったら、

やっぱり、見ている方向性が全然違うので、スッキリ。


わたしは、わたしの感じていることを、信じる。

他人の感じていること、思っていることも、尊重しつつ。



でも、まあ、
重い、軽い、エネルギーはあるんので、

わたしも、
会った後に重くなるような場合は、極力、引き気味で関わろうかなと。

だって、使うエネルギーの場所、相手は、
たくさんあるから、

すこしでも、「無駄」は、だんだん、できなくって、
ほんと、無駄だし、全体がまわらなくなる。


一年一年、同じ事は無くって、
シフトチェンジ、
切り返しながら、
目の前のことに全うする。



根っからの

大学生のころ、
ドストエフスキーの代表作を読んでいた。

その中でも、

『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャが、

とても心に入ってくるキャラクターで、

献身的に人に尽くし、子どもらに囲まれている場面などが、妙にリアルに心に残り続けている。

周囲に時代遅れとばかにされながらも、
若い修道僧として、真理を問い続け、
なおかつ、目の前の人たちの生に、寄り添い続ける。

そんなアリョーシャの人物。

遠藤周作がよく描く、
人の善い、ばかにされやすい、純粋な若者たちのような。


今日は偶然、
BSをつけていたら、映画『パッチアダムス』がやっているのをみて、

また何か心のなかで響き渡るような感覚を覚えた。


映画『ブラザーサン・シスタームーン』を見たときにおぼえた、感覚に似ていた。


わたしがやりたいことは、こりずに、
理想主義だな~と思う。

でも、自分とかけ離れた、夢の自分になりたくてそう思っているのではなく、

ただ、こころから感動したいから、
そう本心でおもって、動いているだけなので、
偽善ではないのだ。

もう根っからの、
生まれた後の生育過程で、だれになにか刷り込まれた価値でもなく、

もう生き癖としか言いようのない、
生まれながらにインプットされている何か、みたいな。



人間的である。

人間らしさ。

そういったものと、かけ離れた生き方はできない。

いつでも、自分は、人間らしく、人とかかわりたいと思う。



技術的な面での向上もあるが、

人間として、がないと。


求められる範囲ということもあるけれども、

別の軸で、
自分が満足できるものを、求めてしまう。

別のものが、見えかけている。

すこし、おもしろい、
そして、すこしまた本気をだしていこうという感じの。



欲情する対象は?。ガラパゴス。お祓い。

新年度スタートで、
今週はいろいろと新しい環境で、新しいことが始まる週でした。

私自身も、職場では配置換えで、
仕事内容はほぼ同じでも、任される業務量や質も変わり、
一番大きかったのが、
机の移動。

大所帯のお部屋から、こじんまり少数精鋭?のんびりとした棟のお部屋へ。

机が変わるだけで、こんな気分が変わるんだな~と、驚いた。

両隣の人や、前の机の人も変わるし、そもそもメンバーが変わるから、
それで気持ちの感じ方も変わるわけだな。

ちょっと離れたから、見えてくるものもあり。

人を観察しながら、
自分はどうしたいのか、
自分の価値観、信条は、どんなものなのか、
どんなエネルギーを拡げていきたいのか、を、思う今日この頃。

特別になにもしなくても、
存在だけで、拡がっていくなにか、というものもあるのかな、と感じた。

ただ、自分がしたいように正直に、素で在れば、
行動したり、じっとしていても、
おのずから、他人にも、それが伝わっていくようです。

それは、また、こんなふうにもいえる。

いくら表面上、「良い人」「好感をもたせよう」としても、

その人が、どんな人であるかは、はしばしににじみ出てしまう。

神は細部に宿るというが、
ほんとうに、
ちょっとしたことに出ているのを、気づかない、気づけない。

もしくは、
細部じゃなくても、もう、本音が見え見えって感じの人もいて、驚いている。

たぶん、まあ、隠さなくても、自分はもう「王様」くらいの気持ちなのかもしれない。

呆れてしまう。

そういう系統の人たちを観察していると、
こんなフレーズが降ってきた。

「権力・権威に、欲情する」

「○○さんは、○○主任、
××さんは、▽▽課長、
すごいですよね~。
私も、□□主任になっちゃおうかな~。」

そういう言い回しが聞こえてきて、
薄気味の悪い食べ物をみたときみたいな、
生理的に合わない何かを感じた。

なんだろう、この感じって、考察していたら、

こういう人たちは、

「権力」「権威」が好きで、それにこびへつらったり、

自分がそれを手に入れたい、パワー志向が、強い人たちなんだろうなと。

上昇志向は、悪いものではないと思う。
誰しも成長したい、さらに上にあがりたいとおもうし、向上心があるということだから。

なのに、なぜ、わたしはある種の人に、違和感を抱くのかといえば、

ヒエラルキーの頂点で、
上下関係で人間関係をとらえ、
自分も上に上がって、権力を行使したい、権威を行使したい、という、欲望だからだろう。

ただ、自分自身が向上する、成長するという内的動機ではなく、

そのコミュニティ内の権力、権威や、世間的な肩書や名声、
物質的にも月給があがるという、形や力がほしいだけなんだろう。
って感じがするからかもしれない。

そこに品性、品位、人格が感じられないのだ、
上にあがるひととしての。


そして、上がれば上がるほど、
ペーペーでもできていなかった、
人としての基本的な、謙虚さや、尊重、慎み深さ、思いやり、礼節は、失われ、
なんだか、よくわからない、
「キャラ」としかいえないものに、なっていくように、感じられた。

cyara

この場所でしか生息できない、獣って、感じだ。

そういう生き物として、今後は、観察していこうと思っている。

黒革の手帳ならぬ、
こころの妖怪手帳をひろげて、新たな一項目を付け加えた。


権威、権力に欲情するって、あるいみ、ゴリゴリな物質的価値観、
本能的、動物的動機なのだが、

これは、一般的な人間関係だけではなく、
恋愛の場面でも、云えることなのか、と思った。

女性は、場合によって、
パートナーに、社会的地位や名声、経済力の良さ、権威や権力を求めて、
そういうものに惹かれて、寄っていく場合もある。

結婚相手を選ぶときなど、特に、そうだ・・・という話だ
(うちの母親談。※注意・私の価値観ではない)。

私はそういうのって、ゴリゴリすぎて、気もち悪いと思ってしまうのだけど、どうでしょう。

「君は、ぼくの何に惹かれたの?」って尋ねて、

妻の女性が、

「あなたの地位と名誉、金と権力」

って言ったら、うれしいだろうか。

その逆もしかり。

恋人の男性が、

「貴女の名声、金と権力、セッ●スに惹かれた」って言ったら。

うーむ。。。。。

男の場合は、絶対最後の一つは、わかりやすい欲望の一つと思うんだよね。

こういう風にいわれて、
喜ぶのは、うぬぼれの強い人かもな~。

私も学歴や家柄には、どこか引っかかるところがあるのは確かで、
それは、自分に微妙な劣等感やコンプレックスがあるからだとおもう。
本来的な理由ではなく、エゴ的なものだと。




人間は、肉体をもっていて、肉体に伴う性別をもっているし、
生理もあるから、
どうしても、性的な反応、違いというのは、出てしまうのはしかたないのかも。
周囲を観察していて、最近そう思うようになった。

好みの異性には親切になってしまうのは、仕方ない、みたいな。

私の場合は、どこの場所へいっても、
すべての人に平等に、性別や年齢は関係なく、敬意をはらって、
互いにとって心地よくふるまうのが、当たり前と思っていた。
・・・・自分の個人的好き嫌いは、ともかく、おいておいてね。

が、

案外、人は、
自分の好き嫌いで、人に対する態度を変えてる人も、多いんだな~と、
知った次第。

いや、むしろ、ほとんど、
個人的感情の好き嫌い、もしくは利害損得で、
態度を決めてる人が、こんなに多いとは、知らなかった。

だからといって、
それで幻滅とか、ひどい!とか、最低!最悪!とか、
ジャッジにはならない・・・ってところが、私の成長なんだろうな~。

もはや「別の生き物」「そういう謎のキャラクター」としてしか、感じられないんだよね~。

進化の過程で取り残された、前時代のなぞの生物が、まだ生きていた!!!!みたいな。

ガラパゴス諸島にだけ生息する、獣!!!
という風な感じかな~。

garapa



そんな風にやりすごしながらも、

わたしのファン?は、着実に、草の根運動的に増えてくれているようなので、

わたしという謎の生命体の影響も、この場所で、おもしろおかしく、広げていこうと思う。

たぶん、今の環境だと、わたしのほうこそ、謎の生命体と思われていても、しかたないので(笑)。



それにしても、ちなさんもブログに書いてらしたけど、
「邪気」をどう排出するかってのは、
あるな~と。

最近、お酒が好きだったり(お酒売り場にいくと、気分が上がる)、
家庭菜園をけっこう本格的にやったりして、土いじりしていたのは、
邪気払いによかったのかもな~と、あらためておもった。

自分でお祓いする方法を、いろいろ編み出すのは、大切かも。

あと、自分の目指す方向性、
自分の心地よく感じるほうの感覚を、きちんと、リセットして思い出すこと。

自分の内側にその心地よい感覚を、流していくこと。

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