類は友を呼ぶ。愛がすべて。情熱の薔薇。

今日は、産業カウンセラー講座の、最後の実習日でした。

この講座が始まったのは、一年前。
一年かけて、カウンセリング実技を勉強しました。

一年前をふりかえると、
いま、ここで、こんな風に思っている自分がいること、
全く想像できなかった。

すべては、ご縁だったのだな~と、ありがたい気持ちでいっぱい。

今日、仲間と別れた後、

「なんて、すてきな人たちが、集まったんだろう。

その仲間で、いられたわたしは、とってもラッキーだな~」

「そんな仲間と、こんな絆をもてた、わたし自身のことを、
いま、わたしも、好きだなって思えるな」

って、思った。

ずっと、自己否定が多くて、
見た目よりずっと、孤独を感じやすかった私。

「類は友を呼ぶ」といって、
その人を知るには、
その人の周りに居る人たちを、みれば、わかる…という。

そんな言葉を知ってても、
わたしは、ずっと、じぶんに自信がもてなかった。

その言葉を、ネガティブにとらえていた。

でも今日は、初めて、
とっても素敵な人たちに囲まれて、
わたしは、すんごい、幸せで、
もしかして、
こんな人々に囲まれているわたしも、
じつは、とっても、いい人間なんじゃないか?と、思えた。

良い人たちに囲まれていると、
じぶんも、物事を肯定的に前向きに、
愛いっぱいに感じられるので、
疑念やネガティブな感情、エゴよりも、
とにかく、愛や光を信じられる。
自身も、こころから「良い人」に、本当なれるのかも・・と気づいた。

心が洗われるって、こういうことなのかも。

正直、
これまで生きてきた中で、
いちばん、バランスがとれた、すてきな人たちと、
ほどよい関係を、みんなで築けたかもしれない。

この数年、
わたしの人生に嵐が吹き荒れて、
人間の業の底の底の方まで垣間見て、
がっかり、失望したこともあった。

「人間て、ここまで落ちれるんだな~」って、
修羅場を垣間見て、
地獄のような世界を、見せてくれた人もいた。
じぶんもそんな感情世界のなかで、一緒にのたうちまわったこともあった。


でも、いつでも、きらっと光る何かがあって、
それに救われて、励まされ、前をむいて歩いてこれた。

いつでも、必ず、光を感じさせる人たちと、
そのとき、そのときで、出会った。

いまでも、その人たちの顔を、
ひとりひとり、思い出せる。

思い出すと、温かい感謝の気持ちが湧き上がってくる。

色んな人から、愛をもらったな~と思う。

いろんな人の愛のかけらをもらいながら、
ずっと、なんとか、歩いてこれた。

愛って、
恋人同士、「恋愛」という先入観が強いかもしれないけど、
ぜんぜん、そんなんじゃないんだよね。

どんな人も、
だれかに愛を発揮している瞬間があって、
誰かを照らしているのだとおもう。

性別も年齢も、肩書も、
社会的地位も、生い立ちも、お金も関係なく、
だれしも、持っている、最高最善のもの。

それが愛だし、
知らぬ間に、だれかに渡しているのだと思う。

それがあれば、
どんなつらいこと、悲しいことも、
凍りついた心も、奥底で溶けていく。
人は癒されるんだと思う。

私にとって、
生きる価値基準、価値は、
すべて、この「愛」だな~と、実感した。

今日、ますますそう思った。



この歌を聞いて、
恋愛をイメージするひともいるかもしれない。

でも、以前にも書いたように、
この曲は、9.11のテロで、
子どもを失った、お父さんをイメージして、作られた歌だそうだ。

この「きみ」は、先に死んでしまった子どもで、
「わたし」は、残されたお父さんお母さん、なのだそうな。

それを知っているから、
この歌をきくと、すぐ
わたしは、自分の子どものことを思い浮かべる。

だから、この歌を聴くと、すぐ泣けてしまうので、危険だ。

今日、二次会の席で、この曲を先生が歌いだして、やばかった。

いまの私にとって、
子どもへの想いが、一番純粋な気持ちだし、
これが「愛」なんだと、子どもによって教えられた。

この基準が、いまは、わたしの愛の基準になっている。

母親が、子どもを想う心は、
無条件、無償の愛。
全肯定。
命そのもの、全肯定。

愛って、本当に純粋だと、
祈りにちかい想いしか、わかない。

愛は、
祈り、守護、
祝福だとおもう。

そんな愛と同じものを、
わたしは、
わたしの周りの人たちにも、
見つけたり、感じたりできると、
気づいた。

それって、すばらしいこと。
とっても、幸せでありがたいことだな。

わたしの大好きなひとたちが、
みんな、
幸せに、きらきらと、
これからも、自分らしい道を歩んでいくことを、
心から祈っている。



そして、わたしがカラオケで歌った歌。

「情熱の薔薇」

う~ん・・・結局、わたしって、こういう感じなのね~(笑)。





人の魅力。理解すること。「苦手なものを好こうとする努力」について。

昨日は、カウンセラー講習の日でした。

毎度、奥深い気づきと学びがあって、
内側と外側と、すごく刺激になる。

人間の奥深さ、に気づかされて、
感動して、味わい深い。

輝きの種類にもいろいろあって、

硯で丁寧にすった墨の中に、金箔を浮かせたような、とか、

妖精の粉みたいな、パステルなきらめき、軽やかさとか、

草の葉についている朝露の一粒みたいな、とか、

それぞれの人の輝きがあって、

それがとても好き。

そういうのをみてると、
人間が好きだなと思う。


でも、それをわざわざその人に伝えたりしないで、
ちゃんと時がきて、必要なら、
その人に伝えようってくらいの、いまは、気持ち。


人って、じぶんでは気づかない、気づけない、魅力や美点がたくさんあって、
ときどき、
それを自然にふりまいているんだけど、
本人はぜんぜん気づかなかったりするのが、
ふしぎである。


へたすると、
むしろ、人からは美点や魅力として受け止められているのに、
本人は、それが大っきらいで、自分の一番きらいなところだったりするのが、
また、おもしろい。

自己概念を何度も何度もとらえ直していく、
みつめていく過程で、
じぶんをありのまま見る、受け止める練習を続けていくと、
ひとのことも、割合に、バランスをもって、観られるようになる気がする。


一つつけ付け加えるとしたら、
たとえ、そのように、総体的に人々をとらえたり、自分をとらえたりして、
理解するようになったとしても、
イコール、
その人と一緒にいよう、とか、
その人のことを好きになれ、好きになろう、とか、そういうわけではない。

べつに、それでも、
やっぱりこの人と自分とは合わないな~って思えば、
一緒に居なくていいし、
または適度な距離で付き合えばいいし、
むしろ、無理して一緒に居ようとすることが、
お互いにとって、不自然って場合もある。


理解することと、
好きになる、好きと思うこととは、別物である。

理解することは、
無条件の愛、
人がそのままでいる権利を認めるということ、かもしれない。



最近思うに、
苦手なもの、嫌いだなって思う人やものを、
無理に好こうとする努力ほど、徒労かもしれないってこと。

そんな経験も無駄ではないけど、
結局、自分を知るために、
それをしているに過ぎない気がする。


自分は何を好きなのかを、
探究していったほうが、
よほど、広がりがある気がする。

自分が、何を好きなのかが、
皆目わからない場合は、
消去法で、
自分が嫌いなものを分析していくと、
その対照として、好きなものもみつかるかも???といった、
活かし方はある。



面白いのは、
どんぴしゃ好きってものもあれば、
どんぴしゃ嫌いってものもあり、

好きかもしれないけど、正直あんまりピンと響かないとか、

ちょっと嫌いだけど、なんだか気が付けば、やっている、いつも近くにある・・・とか、

白黒はっきりわかれない、グラデーションってものもある。

そういうのも、微妙に微妙に、
丁寧に丁寧に違いを観察していると、
とても面白い。


自分の好み、自分の心理が、だんだんとわかってくる。

出来上がりは完璧じゃなく、プロセスも凸凹かもしれない。

先週あたりから、映画DVDを借りてきて、
ちょこちょこみる・・・ってのを、やってます。

印象的だった映画の一つ。

『チョコレート・ドーナツ』



家族ってなんだろう。

親子ってなんだろう。

考えさせられる映画でした。

”HOME”って言葉を、
キーワードとして、また受け取りました。

チョコレートドーナツ一つにこめられた想いと温かさ。

きちんとした、「子どものためには、これはこうだろう」「って考え方もあるけど、
ときには、ちょっと違うやりかたで、
ドーナツを一個食べたって、いいでしょって。

そのドーナツ一個で、子どもに愛が伝われば、
あとは、だいじょうぶ、みたいな。

世の中のルール、秩序、制度と、
それだけではくくれないもの、
むしろはみだしていくもの。

目に見えないけど、感じるもの。




昨日は、またカウンセリングの講習で、一日出かけてました。

最近、河合隼雄の本を読み返しつつ、
クライアント体験もしつつ、
また実習をしてみると、
多角的な角度から、
カウンセリングや、カウンセリングという手法、関わり方について、
学んだり、気づくことが大きい。

カウンセリングって、ほんと奥がふかいな~って思う。

ただ、その時間だけ、ってこともあるけど、
考え方や方法、
思想、姿勢は、いろんなことに通じていく。

河合隼雄の本を読んでいると、
真剣度が高くなければ、
カウンセリングは、意味がない…といったところがある。

真剣でむきあっているようなものだ、
みたいな、緊張感と重みが、
河合隼雄の本にはあって、
でも、それは文字通りの、
真剣勝負できつく、きびしく、相手にあたっている・・・・とかとは、まったく異なる。

姿勢としては、すんごい大らかな度量で受け止めながら、
緻密で繊細な観察と、
相手のことを自分のことのようにかんじる感受性で、感じながら、
自分の中のゆらめきも、観察しながら、
相手と向き合っている・・・というか。

仏像のように、ど~んとゆるぎない聴き手のようでいながら、
なにかを察知すると、
自然にすっと、応答や質問、声掛けをするといった・・・。

そういうあり方を、真剣にやって、
相手と向き合っているという事。

さじ加減ひとつで、全然変わって行ってしまう、世界。

それでいて、何度もくりかえす対話で、
着実にゆっくりと、変わっていく、
変わるしかない部分もあったり。

そういうのを読んでいると、
合気道とか、
武道の間合いを思い浮かべる。


たしかに、練習でもかなりイイ線の経験はできるけど、
実際のクライアント体験で、
現実のセッションを受けていると、
そんな練習とはまったく次元のちがう、本気の心の動きがあるので、
これを受け止めるカウンセラーさんもやはり、
それなりのものを、「支払っている」「賭けている」とおもう。

「支払う」「賭ける」って、お金の事ではなく(^_^;)、
いろいろなエネルギーやこころや、能力、リスクや、
人間としての何か、ってこと。

それを支払っていないとしたら、
たぶん、クライアントにも、それが伝わるし、
こころに響かないだろうな。


・・・といろいろ自分なりの「カウンセリングとは?」について、考えを深めながら、
一方で、

人生って、
そんな簡単に決まりもしないし、
かといって、大雑把だけでもないし、
しゃにむにやっても、動かない時は動かず、
思いがけないことで、動き出すこともあったり。

こうだって、決めつけずに、
「どんなんでもいいんだよね~」って考えも、
最近の私のベースには、ある。


正解は、ない。

これ一つに、尽きる。

正解はないので、
それよりも、
じぶんがどう満足するか、気持ちを充実させていられるか。

その気持ちの部分が、一番大切な気がする。

できあがりも、完璧じゃなくてもいいし、
プロセスもでこぼこ、かもしれない。

でも、まあ、
じぶんがよくがんばった、勇気を出してトライしたとか、
人として誠実に、心は尽くしたとか、
いろんな出会いや気づきがあった、とか、
見方はいろいろだ。

そういうのを、いかに掬っていくか。

そこが、大事なんだろうな~って感じた。


カウンセリングの面白さ。シンクロシニティ。

昨日は、二回目のセッションに行ってきた。

かたやカウンセリングの勉強しながら、

カウンセリングを受けるって、

ちょっとおもしろい体験。


以前、河合隼雄さんの体験談で読んだのだが、

ユング派の修行しにドイツ留学した際には、

教育分析といって、

河合さんもたっぷり専門家から、カウンセリングを受けて、

それがお勉強だったのだそうな。


最近おもうに、
クライアント体験が豊富なほど、
豊かなほど、
カウンセリングの奥深さや、意義や働き、
陥りやすいこと、一方で、感動的な変化、
また、人間力みたいなことあって、あるんだな~って気づかされる。

カウンセラーになりたいなら、
まず、クライアント体験をたくさんして、
色んな人に出会ったほうがいいような、気もしてきた。


私の場合、別に、それが目的でもなかったのだけど、
(※それ=カウンセラーになる)、
結果、
授業でも授業以外でも、
一般的な心理的カウンセリングや、スピリチュアルカウンセリングなどなど、
さまざまなクライアント体験を通して、
いろんなカウンセラーに出会ってみると、

ああ、こんなにも、
カウンセラーによって、違うんだな~。

人間力もアドバイスも、
解釈も、見方も、カラーも、
空気感、間合い、肌感覚も・・・ということが、
経験で、わかってきた。

正直、
カウンセリングって、正解はないんだね~という、実感。

心理学や自己啓発、精神世界の教科書みたいな本はあるし、
理論や、
それをやってきた、学んできたって教養・知識は必ず役立つと思うけど、

最終的には、
どれくらい人を見てきたかとか、
経験値とか、
それでいて、その人のカウンセラーとしての柱みたいなものが、
いかに、しなやかで、強度があるのかとか。

キャラクターや、人格、度量ってものが、ある気がする。

たとえば、
昨日のカウンセラーさんが云った言葉を、
また別のカウンセラーさんが云ったとしたら、
わたしは、受け入れられないかもしれない。

「不自然さ」を感じたかもしれない。

それは、もう、理屈ではなく、

目に見えない何かをキャッチする、「?」ってやつ。

それって、
スピとか、直感つよいとか、強くないとか以前の、
人がみな、日常で自然に使ってる、
じぶんにとっての、センス、
センサーなんだと思う。



最近出会った、そのカウンセラーさんは、
たぶん、前回やってもらったカウンセラーさんより、

クライアント経験が豊富で、経験値も高い分、

コンサル的に、自分の意見もガシガシいう。

主導権は割合、カウンセラーさんである。

「え?これって、傾聴的には、NGな人では・・・(笑)」
「この人の話を聴きに来てる?」

と一瞬思う(笑)。

でも、面白いのは、
それをカバーできるほどに、
全力で、受け止めている感がすごい。


観察してて、失礼かもしれないけど、
そのクライアントを、受け止めるときの、
全力感は、
一歩間違えれば、「役者か?!」というほど、
オーバーアクションだが(笑)、
それくらいしないと、人って、
通じない、伝わらないものもあるのかも、と思ったりする。


だから、カウンセリングが終わったとき、
理屈じゃないけど、なぜか元気になってる。


カウンセリングって、双方向のものなんだってことも、
最近、感じ始めた。


たとえば、
わたしが、最近「愛と力」について思索してたのだけど、

そんな話はちっとも伝えてないのに、

目の前で、カウンセラーが、

「力」について、話し出したりする。


その人がいうには、こうだ、

「力」というのは、
最初からタフな人、精神的に強い人がもつものもあるけど、

そうじゃない力ってのもあるんだよ。



「レジリエンス」って言葉があるんだけど、

それは、傷ついたり、弱ったりした人の、

凹んだところが、もとに戻るときの、

反発力のことをいうのだそうな。


最初から、強い人がもっている、力ではなく、

一度傷ついた人、力を失った人の、

再生する力、
癒す力、
リカバリーの力。

そういう力のほうが、
繊細さや、弱いもののことをも理解できる、
本当の強さなんだ…

みたいな話を聴いた。

おおおおと思った。

感動した。

こういうのって、すごいな~って思うんだよね。

ユングのいうところの、シンクロシニティなのかもしれないけど、
そういうのが起こる段階で、
そのカウンセラーさんは、
かなり私の心や、無意識に近づいてるんだと思うよ。


それから、
シンクロシニティーは続き、
たまたま、テレビで『プロフェッショナル 仕事の流儀』がついてて、
羽田空港の掃除の仕事の人たちの回だった。

ずっと苦労してきた、掃除担当の女性。

掃除の鬼といわれるような、厳しい上司について、
ずっと必死でがんばって、
だいぶ、技術もいいところまで行っているのに、
ずっと、「こころが、足りない」といわれる。

その「こころ」ってのが、ずっと、彼女はわからなかった。

あるとき、気づく、

掃除の技術は、一生懸命やれば、上達できるし、
自分の担当箇所を、きれいに掃除することはできる。

でも、それを必死にやって、きれいにしても、
それは自己満足。

掃除をすることで、
そこを使っている人、お客さんが、喜んでくれるかどうか。

お客さんが喜んでくれなければ、意味がない。

そこに心が、うまれる。

・・・・みたいな話だった。

そう思ってから、
掃除をする際にも、こころにゆとりがうまれ、
ふしぎに、掃除しているときも、お客さんからも声をかけられるようになったのだそうな。



なんか、頭で鐘がなるような気持ちだった。

掃除掃除掃除。

掃除は、きれいになる、目に見えて。

でも、きれいにすることだけが目的で、
技術をあげて、徹底してきれいにしてって、やってたら、
自分だけの、自己満足。

人がそれに「きれいね」と感動し、
「ありがとう」
「素晴らしいね~」って共感してくれる時、

たぶん、自己満足じゃなくなる。

けなげな、
人のために、誰かのためにって気持ちが、そこにあるからだとおもう。

初めて、その「掃除」が輝きだす。

すべて、お客さん、
だれかを喜ばすため、なんだよね。

「おもてなし」に繋がる、
掃除道の奥の深さに、感動しましたよ、

哲学を感じたよ。


魂が揺れ動かされるのは、そっとしたこと。

今日もカウンセリング講習でした。

深い深い感動に、満ちあふれた、帰り道。

世の中で、人の目にふれない場所でも、
けなげに、
最善をつくして、生きている女性の、
そそとした生き方に、
魂ゆさぶられた。

そして、また自分も、
そんな、
すべてが光にあたるわけでもないところで、
日々毎日を、懸命に生きてる、
等身大の、
なんでもない、
たいしたことない、
でも、かけがえのない、じぶんであることをおもって。

切ない、キラキラで、いっぱいの気持ち。


あらためて、想いを、たしかめた。



人生 の いみは、

なにかを

かたちにすること

だけではない

のですよ。


ただ、生きてるだけで、
こころこめて、生きてるだけで、
エネルギーは動いて、
ちゃんと宇宙はみているのですよ。

わたしは、そう信じ、そう感じてます。


でも、受けとることも、大切に。

因幡の白うさぎみたいに、
むき出しの、赤い肌で、ヒリヒリで、
横たわっていたら、
大黒様が助けてくれる。

いつも、じぶんは大黒様になりたかった。

そうやってきた。

だけど、
ヒリヒリの身体で、
もろだしで、ありのままの我が身を提供してみて、
白うさぎみたいに、助けてもらったら、
あらまあ、ふしぎ。

これが、ほんとうの、生け贄。

「犠牲」ってことなんだな~って知った。

白うさぎになることも、
ひとつの愛の機会の提供、
じつは、なかなかできることではない、
愛の働きの一つ。

ああ、なーんだ、
そうだったんだ~。

どうして、これが、ずっとできなかったんだろう、
ふしぎだな~って思いながら。

苦手だったんだよ、
ずっとずっと、
人に助けてもらうこと。
本当の意味で、じぶんをさらけだすこと。
ゆだねること。

でも、やっと変わってきた。

パゴっと、また一つ、
エゴが外れて、
別の自分がみえてきて、
とっても、面白くて、
そんな自分が、好きです。

新しい自分が好きだな~っておもう。

ぐるっとまわってきて、
ここにきた、
じぶん。

自分に出会っていく、感覚。

とても、面白い。



最初は、別の曲を添付してたけど、
今日の想いは、
あらためて・・・。

この曲↑です。

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