今、来たか!!の、「ダヴィンチ・コード」。

先日の、『レオナルド×ミケランジェロ』展から、

レオナルド・ダヴィンチへの興味が継続してて、

たまたま、ツタヤで、「あ、そういえば・・・」と、試みに借りてみた、映画「ダヴィンチコード」。

この映画がブレークしていたころ、
簡単にそのあらすじを聞いた気がする(世界ふしぎ発見!か、なにかで)。

でも、正直、あんまり興味なかったのよね、それ以上でも以下でもない。

しかも、ずっと前に、テレビで放映されたとき、
ミステリー映画だから、冒頭部分に、死体など気持ち悪い場面があった気がしてて、
あんまり・・・と、とおりすぎてきた。

それが、今回、あらためて見てみたら、
主人公のトムハンクスの教授と、
女性刑事の物語や、
この映画の道具立てになっている、信仰、宗教の話が、すんごいど真ん中で、驚いた。

おまけに、狂気に満ちた修行僧のキャラクターが出てくるのだけど、
これがもう、
なんだか、自分の中の理屈じゃない胸の中の何かが、ごぞごぞ、むずむずするようなキャラで、

「あ、これ、完全、これみろ、ってことですよね」としか言いようのない感じ。

「ダヴィンチコード」というタイトルや、ちょっとしたダビンチネタは、あくまで餌にすぎなくて、

本命は、このローマ・カソリックや、キリスト教の話だったのだなと。

メッセージや、サインに満ち溢れた映画でした。
続編も見てみようと思ってる。


ここからは映画のネタバレ、
および、信じる信じないはその人の趣味の話なので、
ちょっと注意。



ダヴィンチコードは、
レオナルド・ダヴィンチの話がメインなのではなく、

マグダラのマリアの再評価であり、

女性性を迫害、弾圧、排除してきたキリスト教的な、男性的な世界観からの、解放を意味している。

薔薇の紋章や、マリアとキリストの子孫を守っている守護者たちなどなど、

マリア信仰、マリア崇拝に似た話。

それと、メインストリーム的なキリスト教との、弾圧と、隠れながらも続けられてきた流れと。

主人公の教授の男性は、象徴学が専攻で、
さまざまなシンボルの謎を解き明かすのが、とても上手。

シンボルを解いていく感じも、すごく、共感できる、重なりを感じた。

私にとって、そういう信仰や流れは、とても素直に共感しやすいし、
なにかスピリチュアルの中でも、自分のシンパシーに近いものを感じる。

で、
今日、
ちなふじえさんのブログで、
書かれていたことが、すごくタイムリーで驚いたのは、

映画に出てくる、
殺人鬼になっていた修道僧の男とか、
いろんなキリスト教者が出てくるのだけど、
私にとっては、いちいち、「あ、これ、過去世だろな」って思う、何かがあったんだよね。

特に、自分を痛めつけ、神に許しを請いながら、殺人に手を染める、
殺人鬼役の
狂気と、裏表の純粋さと、無知さ、愚かさ、盲目、傲慢さ。

よほど、ぐわっときたらしくて、昨日は久しぶりに、夢にうなされた(苦笑)。

それと、その男の唯一の味方であり、利用されていた、枢機卿の男の、
依存・支配関係の重さ。

「ああ、もう、これいいよね」って、本当思ったね。
本心から、そう思えたよね。

ぐるぐるっときて、
今は、見切ったけど。

ループって恐ろしい。どこまで行っても、どうやって抜け出ていいのか、わからないものなんだ。

でも、ちなさんのブログに書いてあったこと、わたしも、少し思っていたことなので、
ああ、やっぱり、それでいーんだって思った。

今を生きる、楽しむ。
自分を楽にして、ゆったりと過ごす。楽しい、心地よいものをたくさんと与える。

で、そうやったおかげか、
また、新たに、
イタリアへの興味が、芽吹き始めている。

イタリアには、一度、大学の卒業旅行で行ったことあるけど、
その時は、なんとなくの流れに過ぎなくて、
なんとなくで回っていた。

そのとき、
バチカンのシスティーナ礼拝堂も、最後の晩餐のある修道院の食堂も、訪れている。
でも、なんだか、おぼろだったんだよね。

今は、すごく、わかる気がするのだ。

自分が気になっている物語をたどり、そのゆかりの場所を調べておいて、巡ってみたいな。




それにしても、
「レオナルド・ダヴィンチが、なぜ?」ってところで、

映画の中でも少し出てきたけど、

先日の展覧会とのつながりで、気づいたことは、

ルネサンス芸術の人々は、
宗教画も、
リアリズム、科学で、描こうとした。
人間の肉体から描いていった、って点がある。

それって、それまでの、
平面的で、「神の栄光」や「絶対的な神秘性」を守ってきた宗教絵画からの、

脱皮であり、
革命なんだよね。

キリストや、聖者を、肉体ある人間として立体的に造形する、描くという。

ある一面で、強固な人たちには、「神の冒涜」と思われても仕方ないような。

それって、なんだろう???って、惹かれながら、
それがどうしのた???って思いながら、
そこに、今の私にとって知りたい何かへの、ヒントがある気がしている。

わたしのなかの、ダヴィンチ・コードが、どんどん広がっていく(笑)。

面白いことに、
あんまり普段から、そういう動きしないのに、
ダヴィンチコード見るときは、なぜか、赤ワインとチーズをが、片手だった。

「赤ワイン」といえば、わかりやすすぎるくらい、シンボルである。

レオナルド×ミケランジェロ展 ~本物が好きな自分に、正直に~

バリ島から帰ってきた後、
かなり夏休みモードののんびりリズム。

娘への家族サービスで、池袋に行ったり。

人混みのなか、動き回って、ちょっとまた内省するようなこともあったり。

ライオンズゲートあたりが、やっぱり、すごく内側から出てくる感じ在りましたね。
古くて重いものとか。
新しいものに進むような促しとか。

静かに、じわじわ、確実に変化している感があります。

家にいる時間、家族と過ごす時間が長くなって、
すこし息苦しくなって、
ふと、自分の時間が必要な事に気づきました。

余裕がないとき、
行き詰まりを感じるとき、
大体、自分の時間を大切にできていなかったり、
自分の世界に閉じこもれていない時だったりする。

気になっていた、「ルネサンス」のかけらを探す作業をしてみました。

三菱一号館美術館で、9月まで開催中の、
「レオナルド×ミケランジェロ」展に、ぶらり一人で。

davi
品があり、理知的で、優美な女性像。

どこか中性的な美しさにも見えるのは、
モデルは、弟子の若い男性を使っていたりするせいから、かも。

ダビンチの女性が、ただ魅惑的な女性というより、
中性的な顔立ちなのは、
人間の黄金律的な美しさを描いてるからかな?と思った。

この「眼」に、ダヴィンチの美を、感じる。

davi2
ミケランジェロのキリスト像。
意志的で、人間的なキリスト。
肉体美が、キリストが実際に生きていた男性であることを、自然に語っている。

ダヴィンチが天才だっていうのは、一般論として知っているけど、
どうしてすごいのか、を、あらためて知りたいな~と思った、展覧会でした。

ダヴィンチの言葉を読んでいると、なるほど、すごいな~って、只者ではないオーラがあります。

アートと、科学、社会や政治が、すべてこの人にとっては、連動しているし、
普遍的な法則や真理を探究する、発明者みたいな感じ。

いま、横浜のそごう美術館でもダヴィンチ展がやっているみたいなので、
ぜひ行くつもり♪。

ランチもして、
すっかり、ひとりで優雅な時間を満喫。

結局、大人の世界、大人の時間の過ごし方が好きなんだよね~わたし。

贅沢とか、家族にいわれることもあるけど。

私の母親からみたら、それらはすべて、「贅沢」「気取っているもの」「いけすかない」世界側のものだった。

でも、わたしは自然に楽しめる。

本当は、家族、特に母親に遠慮して、表に出さなかったけど、
私は、贅沢が好きだし、
上質な雰囲気のあるお店で、丁寧なサーブを受けながら、食事するのが好き。

学術的で、理知的で、教養を楽しむ会話も好きだし、
本物を理解して、それを愛する感動も知ってる。

それらを自然に満喫できるのが、私らしいんだな~って。


昨日も、ランチするとき、
周りをみれば、みんな簡単なランチプレートにしていたけど、

どうみたって、
展覧会コラボの、ランチコースのほうが、美味しそうで、

さんざん迷ったけど、
ランチコースと、イタリアをモティーフにしたカクテルを頼んだ。

これが、
家族と一緒だったり、友達と一緒だったりする場合、
相手に遠慮して、
ちょっと下げた、ランチプレートを頼んでしまう。

まずくはないけど、本当は、あっち食べたかったな~みたいな

そういう、小さな積み重なりが、私にとってなんだか物足りなさになっていくんだろうな~。

「私」が薄まっていってしまうのだ。

やっぱり、自分が気になるもの、いい!って思うのを、
遠慮なく取り込むべきなんだな~と感じる日でした。

何を、オーダーしたいのか。

こんなもの、自分にふさわしくない、もったいない、高価すぎ???とか、
架空の相手や、世間体に遠慮して、
勝手に自縄自縛して、
本当に気になるもの、イイと思うものを、選ばないのは、おかしいかも。

正直に、こんなのがいい!を、オーダーしよう、と、
今あらためて思ってます。



ジブリ映画。映画「セッション」と「プラダを着た悪魔」

ここのところ、
娘がぐぐんと成長して、

「となりのととろ」がきっかけで、ジブリ映画を幅広く見るようになり、

しょっちゅう、ジブリ映画の上映会状態である。


宮崎駿のセンスや世界観、批評精神、人間学のゆたかさに、

感嘆しつつ、

癒やされ、洗われている。



毒が抜けていくんだよね~、ジブリを見ていると。

アニメなのに、画面の色彩も、美しいし、

音楽も美しい。



なーんてやりながらも、

久しぶりに、TSUTAYAで映画を借りてきて、

「プラダを着た悪魔」や「セッション」を観たりもした。


セッションは、長所もあり、短所もありの映画だけど、

なんかわかる~、わかりすぎるほどに、わかる~でありつつ、

でも、人として、人生観として、どうなの~ってところが両方ある映画だった。




120%を求める、すごさと、情熱、愚かさと、狂気、本気と、

光と影の、両面。

プロのジャズ音楽家からみたら、映画中の音楽性自体は酷評されたりもしてるらしいけど、

物語として、映画としては、うーむと思わされるところあった、私の場合。


「プラダを着た悪魔」のミランダにも通じる、な~。





出版社と、大学と、舞台や道具立てがちがうだけで、設定は似てる。


ああ、でも、一歩間違えれば、ハラスメントだよねっていう・・・(「セッション」のほうは)。


怒鳴られたり、罵られたりに、
びくびくしているうちには、相手を超えることはできない。

圧倒的な力の前で、

萎縮する自分や、恐れや恐怖、不安など、ちっぽけな自分はどうでもよくなって、

殻がむけて、

対峙し、乗り越えていくところからが、本当のスタート。



「相手が○○だから~」ではなく、

「自分は○○だから~」に視点が変わっていく。



まあ、「セッション」の教授は、やりすぎと、思うけど(^_^;)。

文化系のなかで、

音楽は、じつは肉体派・体育会だとおもっていた。前々から。

この映画では、まさに、スポ根ってかんじ。やりすぎだよね。

ま、映画だからだろうが。

指導法に、洗練や文化、品位、人間性が感じられないと、

いくら実力派の教授でも、

教師として、プロとして、芸術家として、二流だとおもう。


ただ、フレッチャーをみていて、

わたしが彼を憎めない、どこか、共感してしまうのは、

この鬼教師が、音楽への情熱と誠実さ、
ぴったりと、経験に裏打ちされた感覚、音楽のセンスがある・・・という人物像だからだとおもう。

偉大な音楽家を、再び生み出すために、
生徒を、さらに上にあげるために、
考えて、考えて、やり尽くしてきたと・・・・。(でも、結局、理解者はいない)。

あとは、誰になにをいわれようと、
結果がすべてで(卒業後の生徒が、音楽家として成功する)。



それが無かったら、誰も、こんなパワハラ&アカハラの人についていかないだろうね。

それは、「プラダを着た悪魔」のミランダも、同じ。

文化、教養、経験に裏打ちされたセンスや感性の強さ、
他の人にないものがあるから、人がついていく。

たぶん、そんなカリスマ自身も、
なにかをたくさん引き替えにして、
そこまで、自分を高めてきたんだろうな~って感じの、すごみ。

ミランダも、フレッチャーーも。


あ~、こんな鬼教師に、鍛えられて、
その人の言われるがままに
自分を磨いて、
それで上がっていけるんなら、
悪魔に魂を売ってもいい・・・・

なーんて、ちらっと思ってしまう気持ちが、まだあるんだな~と、
笑ってしまう、わたし(笑)。

いまなら、わかる。

しみじみと。

そうやって、誰かに上げてもらえるうちは、まだまだ、ひよっこなのだなと。

だって、自分のセンスだとか、独自性、独創性を作るより、
言われるがまま、
相手に全責任を任せられるんだもの、ある意味。

偉大な先輩の世界をコピーする・・・という・・・。

コピーし終わって、
余裕がでてきたら、
その次が、見えてくるのかもしれないけど。




人生も、夢も、生活も、

なんだって、ほとんど、自分が自分をあげていくしかないんだよね。

ほんっとーに。

だれかが、どうこうしてくれる、わけじゃないんだね。

自分でやって、考えて、トライ&エラーでやっていくしかないのだな、と、
しみじみ思う。



そして、ちょっと休みたいときは、

ジブリ映画の世界に戻ってきて、

ヒューマニティに包まれて、

癒やされる・・・・と(笑)。










同年代の活躍

情熱大陸で、
今年の芥川賞作家の羽田さんのドキュメンタリーをみて、
30歳だと知り、
同年代、同世代的な共感を持ちつつ、
まだ若いな~と感じる部分もあった。

若さゆえのよさ、
志、情熱、
そして、若さゆえの、固さもある人。

17歳の時にデビューしていたらしいから、
それから、十年以上、文壇で活動しているわけで、
いまの世間の印象よりも(テレビにたくさんでている芥川賞作家の若者)、
実際は、
実直で、手堅く、戦略的に活動している人なんだろなと、私は思った。


で、
姉から借りた、又吉直樹『火花』を、
表紙眺めたり、
冒頭だけ読んでみたり、
いじくりまわして、いつ読みだそうかと、
じわじわと、大事にとってあるのだけど、
その一環で、
本の後ろにある、略歴を先にみてみたら、
「1980年生まれ」とあり、
驚愕。

タメではないか~!!!!!( ゚Д゚)

もっと、年上かと思っていたよ。

もろ、同期だよ。

おいおいおい。

大学時代の仲間や、大学の頃の自分の夢など思い出した。

あれから、
およそ十年以上が経ったわけだが、

歩いてきた道筋が、
いかに、人によって異なるか、
ほんと人生様々だよね。

二十代のころだったら、
同い年の人が成功したら、
嫉妬や焦り、劣等感で、
悶々としたもんだ。

わたしも、年を取ったせいか、
人それぞれの道…と思うだけで、
交換不可能性を感じるだけだ。

ばかみたいなはなし、

私は又吉さんにはなれないし
(大体、20代からお笑い目指して、芸能界とか、絶対選ばない道)

又吉さんも、私にはなれないだろうっていう、

そういう不思議な納得というか。


そして、
昨日、たまたまBSの番組をみていたら、
メキシコの死と生、エロスがテーマの
旅番組で、
壇蜜が出ていた。

壇蜜も、
じつは、タメだったことを思い出した。

おもしろい~。


同年代の活躍を
知ると、ちょぴっと励まされる。

叱咤激励される。


それぞれの場所、
それぞれのスタイル、個性で、
自分の人生を拡げているとおもうと、
わたしもがんばろっておもう。

来年は、申年。
わたしは、年女。

申年のラッキーカラーは、「赤」で、
私の数秘術の、誕生数「1」のラッキーカラーも、火=赤、
しかも、来年のわたしのイヤーナンバーは、「1」らしいので、
やっぱり、赤がラッキーカラーかも。


来年は赤をちょこっととりいれよう。

言葉の力

村上春樹
『色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年』、
読了。

山場を読み超えたころ、
残りのページの厚みから推量して、
う~ん、
と、
なった。

ちょっと、物足りない終わり方。

肩透かし。

私にとっては、そう感じた。

この、肩透かし的なストーリーの決着というのは、
村上春樹の小説によくあることだったか、どうか。

この作品だから、かな。

コミットメント(かかわり)
デタッチメント(かかわらなさ)。

この二つが、
村上春樹の世界の、キーワード、軸の一つらしいと、

河合隼雄の対談で知ったのだけど、

この作品にも、それは明確に感じた。


Mステで、たまたま見た、
この人たちの歌が、
ずきゅんときた。

純文学チックだわ、歌詞が。


文学って、
なんだろう?って、再び思いだしている、今日この頃。

先日、Eテレのハートネットで、
筋ジストロフィー詩人を知って、
ひさしぶりに、涙がこぼれた。

身体性と、言葉。

この二つが、分かちがたいということを、
猛烈に感じ、
実感した。

前よりも、ずっとずっと。
実感する。
言葉には、確実に、身体性がある。

その人にしか、語れない、
出せない、
言葉の力、重みってもの。

村上春樹の人物、言葉も、
村上春樹しか出せない言葉なんだけど、
村上春樹なんだよな~。

って当たり前か(笑)。

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