昨日は、ひさしぶりに、
のんさんのお家で、
友達のAさんと、三人で、ゆっくり手料理をいただきました。
夏に入る前に、のんさんからお食事のお誘いをいただいて、
その時点で、どこかお店へいくプランも提案してくださったのですが、
その時から、すでに、
のんさんの手料理をごちそうになりたい気持ちが、いちばんで、
わがままをいって、ごちそうになることに。
ひさしぶりに、のんびりと、
のんさんの手つくりのお料理をいただいて、
とても無口になりつつ、静かに吸収されていくのを感じてました。
そして、人として思いやりのある、上品な人たちと過ごす時間が、
これほど安心するんだと思い出しました。
中途半端ではない、
極端な人たちなので(ほめ言葉です)、
いまのわたしには、安心でき、ホッとくつろげたのかもしれない。
上品と書いて、「じょうぼん」と読む、私の心のウチとしては。
下品は、げひんではなく、もともとは「げぼん」。
もともと、お経に出てくる言葉で、
この世に生きていた際に、
善行をなした人か、悪行をなした人かで、
魂が上品か、中品か、下品かで、分かれるらしく、
美輪明宏さまの本で、
「魂が高いひとを、上品、というのです」みたいな表現があり、
ときどき、こころのどこかに、
人の「品」ってものを、思うときに、でてくる「上品(じょうぼん)」。
最近、ことばにすることが、何事も、難しく感じる。
ことばにして、口から出した瞬間、
自分の内から外だした瞬間、
どんどんと、違う生き物になってしまう気がする。
よく、文学研究において、作家の自己言及、自分を自分で語る行為に対し、
作為や加工、自己欺瞞、
どうしても、人は、自分の自画像をありのまま描くことはできない・・・みたいなことが指摘されるけれども、
それに似ている。
何かを語ろうとする行為は、
とても難しい。
言葉や文字表現を、
ずっと追いかけてきた人間としては、それをとても感じる。
でも、
むしろ、ことばがなくても、伝わるんじゃないかと、最近感じる。
たとえば、
子どもと接する際も、仕事で子供と接する際も、
言葉よりも、
多くは、表現や姿勢、表情、ノンバーバルコミュニケーションで伝わっていくもののほうが、多いと、数か月で学んだ。
多く語らなくても、伝わることもあると、思うのだ。
ことばに、できない。
ことばにしないほうが、より、ありのままな気がするときもある。
へんな飾りや、曲解がない、ありのままのもの。
小田和正の曲を聴くと、
ものすごく良い歌なのに、なぜか笑ってしまう、私がいる。
というのも、切なくて、透明すぎて、笑えてしまうのだ(謎)。
最近、娘が、トトロのぬいぐるみを気に入り、
わずか数日で、「トトロ、トトロ」と、
アンパンマンの次くらいに、トトロ好きになっていて、驚く。
今日は、映画『となりのトトロ』をわざわざDVDで購入し、一緒に、ちゃんと観てみた。
思いのほか、ちゃんとしたドラマで、驚いた。
これって、子供向けじゃないっしょって話。ぎりぎり、小学生以上からだろうな。
2歳の娘は、トトロはいつ出てくるの???みたいに、ずっと聴いてきた。
トトロは、不思議な存在なので、べた~っと登場しないのです。
ほとんどが、メイとさつきちゃんの物語。
でも、この、母親が療養中で、
お父さんと慣れない三人暮らし中の子どもたちを、
おおきくおおきく、包んでいるのが、
大自然であり、鎮守の森であり、トトロであるってことが、
母親になって、しみじみと、ありがたく、尊く、感じられることに、また新鮮さ。
トトロみたいな存在、自然、人間が作れない超自然の存在が、
気が付けば、私たちを守っている、
私たちは守られているみたいな、感覚が、やっぱり大切なんだな、と。
少なからず、私には必要だってことを、思い出しましたよ。
広い深い愛。
女子三人集まって、おもしろい話もたくさん出て、
「愛って、なんだろうって、思うんですよね~」っていう言葉が、
おもしろくって、
いとしくって、切なくって、共感できて、懐かしいような、応援したいような気持ちで、
聴いていた。
愛って、なんだろうって、思うよね。
うんうん、愛って、なんだろうって、思うようね。
「愛ってなんだろう」って、フレーズを聴いていたら、
それは、人を愛すること、人に抱く感情のことを言っているのか、
それとも、相手から受け取っているもののことを、言っているのか、
よくわからないな~って思いながら、聴いていた。
境界、受け取る、与える、自他とか、
いろいろな見方があるけれども。
もっともっと、深くて、広くて、愛があっても、いいのだとおもう。
いろんな形から入って、いろんな段階があって、
愛に通じるならば、
一片でも愛があるのならば、それでいいのだとおもう。
大体、純粋な愛をふりそそいでいても、
受け取るか受け取らないか、
愛情とそうではないものの、その差異を理解できるか、できないかも、
受け取り手のレベルも大きいから、
いくら、愛しても、愛しても、足りない・・・ような、
一方通行ってこともあるだろうし。
でも、いつか芽吹くとおもって、愛を注いで、
その人の中で、いつか、芽吹く日がくる・・・くらいで放置して、あきらめてもいいし。
やっている最中、それは、相手や、相手との問題というより、
多くは自分自身の問題であることに、気づかされて、
すべては、自分の学びと気づきの経験であると、知る。
私の場合、そんなことが、多かったけど(笑)。
人生に無意味なことはなく、
すべては意味があるし、無駄はないから、
なんでも、「これだ」って、思ったら、やっていいし、
どこまで行ってもいいのだとおもう。
やりきったからこそ、わかるものもあるとおもう。
どちらにせよ、これがちがうって、気づくときはちゃんと、気づくようにできているし。
なぜか、連続でyoutube動画かけていたら、この曲が流れてきて、また違うモード。
この曲は、すごく、本能的、原始的女性をいつも感じる。
母親になってから、
出産という経験が大きいんだな~って感じる。
体の真ん中から、裂けるように、押し出すように、
新しい命をひりだすので、
その生臭い血の匂いとか、どろどろした悪露とかも体感しながら、
最強の痛みの中から立ち上がり、
ギャーギャーひっきりなしに泣く、赤子をエンドレスで世話していると、
理想とか、きれいごととか、観念が、
脳みそから吹っ飛んで、
ずぶとくなり、計算ではなくなり、
もっと肉体や魂の底から、
ぬくみのある血肉から、
命を生かし、育もうと、やっぱり思うようになるのかもしれない。
子どもを産む前の、
結婚する前の、
さらに傷つきやすかった頃が、懐かしく、おぼこだなあ~と思い出される。
母親をやっていると、だんだんわかってきたのは、
鬼子母神ではないけれども、
自分の子供をどんなことをしても、生かそうとする、
生存本能、母性本能、防衛本能も知りつつ、
それすら、またいとしく、思える気持ちになってきた。
私にすら、そんな感情があるという、人間くささが可愛らしく思えるようになったというか。
ひとから、どう見えようが、どうおもわれようが、どうでもいいかも・・・って思えるんだよね、
自分と子供を生かすために、私は私で、最善尽くしているから。
わたしがこれだけ精一杯生きているのは、
本当に、厳密には、わたし自身にしか、わからないだろうし、
客観的にみても、
ウルトラCくらいの、
K点越えの行動と、情熱で、ここまで来ているから。
私は、ここまでやっている、私を誇らしく思ってもいいんだって、今日は思った。
私の底に井戸があって、
その井戸の水を汲んで汲んで、やっていたら、
釣瓶のなかに、きれいな白い月が浮かんでいるのに気づく、みたいな。
これでいいんだって、また、すこし、ふっきれた気持ち。
ああ、結局、
みんな、誰かを愛しているし、
だれかにきっと愛されてるんだな~。
そんな、ピュアさを感じられる、純粋な美しさを感じられるのが、
生きている醍醐味。
そういう綺麗な、透明な、温かい、美しい心を、たくさん感じたい。
お金にならないし、
ほかに誰も気づかないかもしれないし、
記録にも残らないかもしれないけれども。
死ぬまでに、いな、死ぬときは、
気持ちよく死ねるように、
やっぱり純粋に、正直に、瞬間瞬間、愛で、ポジティブで、生きていきたいな。
季節はずれだけど、
さいごのさいごで、
この曲の気分。
今は。
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