どこにいても、修道。

「3月は、別れの季節です」

なーんて、

あちらこちらから聞こえてきて、あんまり意識していなかったが、

ほんと、そうだな~としみじみ感じる今日でした。

完全な別れ(もう二度と会えない)というものでもないけれども、

生きながらにしても、

「一期一会」という、

刹那の感覚のある、あの、別れ感である。


それが、また、いーんだよね。

切ないんだけど、愛しくって、可愛くって、ありがとうな気持ちでいっぱい。

そして、流れはもうすでに、新年度のほうへくるくると勢いよく向かっているし、

また新しい出会いがたくさん待っており、そこの場所で、また精一杯やるのだという、気持ちよい覚悟。


握ってしまうと、だめなのだ。

ふわっと、雛を手で包むように、

出会いも別れも、慈しみながら、軽やかさもあるのが、コツと思う。

始まりがあれば、
終わりがあるから、

去り際、終わり際を、
いかにするかも、
大切。

始末をつける、ということ。


あまりに良いから、
あまりに合わないから、と、
どちらにふれても、ぎゅっと握ってしまうと、ダメになる気がする。感覚として。

自分にとってうれしいことも、嫌だったことも、時がきたら、ふわっと手放す。




今日も、じぶんのなかのエゴにいくつか気づいた。

人をうらやましく思ったり、小さくジェラシーを感じたり、
自分が僻んだり、卑屈に思ったり、

そんな時は、たいてい、エゴだよね。

「わたしが、○○さんだったら」

「わたしが、男だったら」

「わたしが、もっと○○だったら」

なーんて発想の時は、たいてい、エゴである。

あー、わたしにも、エゴがあるんだな~って思って、
しょうがないよね、
人間だもん、ってやって。

ああ、でも、わたしは、
ほんとうに感じてることは、もっと別にあって、

こんなに喜びや輝きがあるじゃんって、思えるところに、進歩をかんじる。


仕事や、生き方や、すべてにおいて、
わたしは、
ちょっとズレているんだよな~。

すっと降りてきたフレーズに、

「わたしにとって、すべてが修道であり、

どこにいても、修道なんだな」

って言葉。


誰が相手でも、

どんな場所でも、

人と接していれば、

その目の前の相手に、誠心誠意、どう尽くすか、が、私にとって大事であり、

人間らしい心や魂の触れ合いを感じられる瞬間が、

私の本当の喜びだから。

地位も、名誉も、肩書も、
実は、私にとっては関係ないのではないか、と。



逆に、
私に足りないのは、

世間一般の人がもつような、
もっとゴリゴリのハングリー精神、
物質的野心や上昇志向。

欲。ってやつ。

ほんとは、もっとそういう意味でも、上に行けるだろうに、

ちょっとしたことで、物質的には満足できてしまうから、

競争や競り合いになったときに、
欲が足りなくて、
すっとよけてしまうのが、良くないんだね。

私の理想がやたらと高いから、
物質的なことに、どうも食指が動かないところがあるんだろう。

だから、わざと、最近では、
バリバリ稼ぐぞ~~~!!!とか、云ったりしている。(言霊・(笑))。

エゴが教えてくれる、
自分の小さな、ちっぽけな欲や願望も、
たまには育てて、認めてあげてもよいのかも。

それも、自分に気づく一歩かも。



修道って言葉で、すっとおさまってしまった、わたし。

うん、わかる気がする。

そう、そして、そこからさらに、

今、この人生を生きる私は、新しい経験をしていくのだ。




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