光と風と水と。

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in スピリチュアル

鎌倉散策とお御籤。人か、獣か。その人だけの美。

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昨日は、鎌倉に行ってきました。

だんなの誕生日だったので、
たまには外出ということで、
ひさしぶりに、ぶらぶら、鎌倉・小町通りを散策。

日曜日なのに、まあまあの込み具合だったので、
ベビーカーでも回れました。

腸詰屋さんの美味しいソーセージを食べたり、
八幡様の境内の売店で、甘酒を買って、蓮池を見ながら飲んだり。

参道の出店で、
鶏皮ホルモンの屋台をみつけて、ベンチで一杯のんだり。

一筆書きのおじさんのところで、開運の白蛇の絵を買ったり。

なんてことはない日だったけど、
その、なんてことはない時間に、みっちり何かが詰まってた。

「来年は金運をあげるぞ!身近なところで、銭洗弁天か?!
でも、あの洞窟っぽい感じが苦手・・・・」
なんて話していたのだけど、
とりあえず、ベビーカーで寄れそうな範囲で、
八幡様の境内にある、弁天様でお参りしてみた。

弁天様でも、いろいろなんね。
お札所には、恋愛とかご縁とか、安産子授けとか、桃色系が多く、
わたしの狙っている金色系はなかったゼイ。

「ま、それはそれで」と、
お御籤を引いてみたら、
じぇじぇじぇ・・・!

こんなんでましたけど~・・・・。

「すなほなる 道を守らば 天つ神 
人のこころに さこそ よるらめ」

「昔の人は神さまよ私の行為を見てくださいと祈った。
自分の行為が絶対正しいと信じて神に見て頂いたのである。
素直に心を保てばきっと祈らなくても神は護ってくださる」


かみさま、
ちゃんと、見ていらっしゃるのですね・・・。

そう思いましたよ、ハイ。

いろいろガムバり、
自分の価値観や世界観を確かめつつ、「これだ!」と動きながら、
どこかで、小さく、「これでいいの」とブレる、揺れる、じぶんがいることを、私は知っている。

なので、この御籤が出たとき、
「ああ、いいんだ、ブレは手放して」とあらためて、教えられた。

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赤ちゃんが寝た後、
なんとなくの流れで、7月の知名さんのセッションで教えてもらったことを、
だんなにもシェアした。

本当は、このまま、ずーっとわたしだけの情報で、判断し、行動しようと思っていた。

でも、最近、
だんなに話そうが、話すまいが、
あんまり影響ないかも、と思うようになり、
信じるか、信じないかは、彼次第と思い、話してみた。

すると、思ったよりも、神妙な様子で、受け止めていた。

話していて、
夫相手に直感カウンセリング状態になっており、
「もう、これは・・・」って思いながら、
わたし自身も、輪郭やお役目が、くっきりしていく想いだった。


私たち夫婦は、
世のカップル、パートナー、夫婦のイメージと、
かけ離れてるんだ、あらためて思った。

正直、
夫婦うんぬんより、
どう生きるか、魂レベルのことのほうが、大事なんだと思う、無意識に。

彼は彼で、生い立ちがいろいろあったから、
自分の家族がほしかったし、家庭を持つ夢があったが、
いざ作ってみると、
「思ったほど・・・」という気持ちがあると思う。

家族を持って、嬉しいはうれしいが、
それを持てば、満たされると思っていた、
消えると思っていたむなしさが、
いうほど、消えなかったということ。

仕事にしろ、家庭にしろ、
彼はそんなことで簡単に満足しない、満たされないタイプなのだと思う。

だんなを分析し尽くした結果、いま、客観的にそう私は感じている。

人生、魂、生まれてきた目的とか、
そういうこと突き詰めて、
見つけたり、動き出すために、一緒にいる気がした。

なので、正直、
夫に精神的に頼るとか、甘えるとか、
彼から受け取るとか、
おなじレベルのものを求めるとか、
・・・ああ、ハイ、そういう次元じゃないんですねと。


前々から思ってはいたが。

「夫だから、特別」
とかではなく、
もう誰に対しても、なんだか、そんな風になっており。

振り返れば、
深い付き合いになればなるほど、
友達、家族、パートナーと、どんな関係でも、まんべんなく、そんな風であり。

そう明確に意識して、自覚すると、
ぎゃくに、そのパターンを超えていく方向性、可能性というのも、
浮かび上がり、掴むことができてきた。


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夫に「人か、獣か」って話をしたら、
その言葉が一番納得したと云っていた。

正直、
『美女と野獣』ではないが、
わたしたちは、『平安時代の貴族と、野獣』くらい、落差ある。

荒削りすぎる。

その荒削りのところに、ありえない純粋なのが、ぴかっと光る。

夫をみてて、人っていろいろだな~とこれほど思う人もいない。

最近思うのは、
人は、その人その人の生き方の中で、
その人を体現していって、
その人だけの美になればいい。


能のバイブル『風姿花伝』では、
若い時の美「時分の花」と、
芸が極まったときの美「まことの花」とでは、
まったくちがうってことが書かれている。

美って、
酸いも甘いも、泥も金も、闇も光も、
内包し、
ぜんぶくみ取ったうえで、
昇華されたところにあるもの。

善悪をこえたところにある表現の結晶みたいな。

私がこんな風なことを思うのは、
博士論文で、正岡子規をずーっと追究していたとき以来。

結局、そこなんだな~って思った。

わたしの求めるもの。
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